「授業シナリオ」とはなにか
本書は、中学校の国語の授業で取り扱われることの多い作品について、各ジャンルごとに、自分ならばこのような展開で授業するだろう、という案をシナリオの形で表したものである。
これを「授業シナリオ」という。
まず、「シナリオ」とは何か。
『新訂国語教育指導用語辞典』(教育出版)の「戯曲」の項に次のように説明されている。
俳優のことばと行動によって事件の経過を眼前に表現させることを想定して書かれて
いる(もの)。
これを次のように読み替えると「授業シナリオ」を簡単に説明できる。
授業者や生徒たちのことばと行動によって授業の経過を眼前に表現させることを想定
して書かれている(もの)。
俳優が舞台で演じるために書かれているシナリオのように、授業者や生徒たちが一つの授業の中で話したり、行動したりする様子と、授業者の意図を「ト書き」にし、時間の経過にしたがって予想して書いたものを「授業シナリオ」という。
過去、教科書に載る有名教材については「~の全発問・全指示」などという指導書が多く出版されている。わたし自身もそれらの書籍を参考にして授業してきたし、わたし自身の授業を改革していく大きな助けともなってきた。「授業シナリオ」は、この「全発問・全指示」よりさらに授業の実際に近づけたものである。
それは、いわゆる「指導案」なのか、という疑問があるかもしれない。「指導案」との対比として説明するならば、「授業シナリオ」とは
「指導細案」
といえる。
授業を構成する授業者の発問・指示・説明・意図などや、生徒たちの反応・意見・行動などを、発生する時間にしたがって細かく予想して書いたものである。
ちなみに「授業シナリオ」をインターネットで検索してみると、いくつか同様の実践を探し出すことができる。
一番目にヒットしたのは、近畿大学教職教育部の杉浦健先生のページである。(http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkaqw906/shidouan.htm )
そこでは「シナリオ型指導案」という名前で実践が紹介されている。
杉浦先生は、次のように言う。
シナリオ型指導案は,授業経験のない学生さんが授業の構成を学ぶために私が導入し
ている指導案です.重要な発問や指示,生徒の反応予測などを指導案に書くことを提唱
する向山洋一氏の指導案にヒントを得て,授業経験のない学生さんでも授業の構成のコ
ツを学べるように,自分の行う授業をイメージして実況中継的にシナリオを計画するも
のです.
杉浦先生は、向山洋一先生の提唱する指導案にヒントを得て、と書かれているが、わたしの意図するところも同様である。
50分の授業のなかで起こるすべてのエピソードをあらかじめ予想し、シナリオ化することはそう簡単な作業ではない。
「授業シナリオ」を書こうとすると、自分の授業をより客観的に見つめ直さなければならない。シナリオ化するためには、発問、指示はもちろんのこと、予測できる生徒の反応など、授業の実際の場面で起きるいろいろな要素を熟考しなければならない。また、それらを文章として書き残すのであるから、かなり細部まで検討する必要がある。
こうした作業をしてみると、いかに自分の授業が行き当たりばったりで計画性が弱いものであるか身にしみて感じる。
しかし、はたしてそこまでの細案が必要なのだろうか。無駄に細かいだけではないのだろうか、という疑念もあるかもしれない。
確か向山洋一先生もどこかで書かれていたと思うのだが、『詩の授業』(太郎次郎社)で無着成恭氏がご自身の授業について次のように書いている。
(吉野弘の詩「奈々子に……」の授業計画で)
① 全文を板書して、「詩歌集」に写させる。
~
⑭ 感想文を書かせる。
だいたい、このぐらいのことを胸の中にしまって(胸案)、授業に臨んだのだった。
(丸山薫の詩「ランプのように」の授業計画で)
① この詩を全部板書する。
~
⑧ どんな気持ちをのべたのかきく(理想にかかわる)。
このへんまできめておいて、授業にはいることにした。そのさきは見えないまま。
わたしがどこに違和感をもったか、わかっていただけただろうか。
一時間の授業を構成するときに、「だいたい、このぐらいのことを胸の中にしまって(胸案)」とか「このへんまで決めておいて」、でいいのだろうか。
「そのさきは見えないまま」、で意図した学力を形成することができるのであろうか。自分の教室の生徒たちに、ねらった学力を確実につけていくためには、一言一句まで練られた、50分の流れのすべてを見通した授業案でなければならないのではないか。
そうはいっても、そもそも授業にシナリオなんてありえるのか、と批判されるかもしれない。
よく「授業はいきもの」という言葉で表現されることがある。授業者が綿密な授業研究や教材研究を通して組み立てた授業案が、実際の授業では見るも無惨に崩れてしまうことはそれほどまれなことではない。
授業は、授業者と生徒が共同して創っていくもの、といわれる。確かに、生身の人間を相手にするのだから、その能力、意欲、発言力、学級での力関係、等々、事前に予測しきれない要素が、せっかくの授業案をだいなし(!)にしてしまうことがある。そればかりではなく、時には授業者が努力の末に作り上げた授業案を超えてよい授業になったりするから、それが、「授業はいきもの」といわれる所以である。
したがって、授業にシナリオなんてナンセンスだ、と思われる。シナリオ通りにうまい具合に進行するなんて考えられない、と経験的に思いこんでいる。
「授業シナリオ」など書いたことがないのに、である。
自分の担当しているクラスや生徒の実態を十分に把握し、何度も何度も練り直した「授業シナリオ」なら、嘘のように授業は思い通りに進んでいく。
「授業シナリオ」を書いても、実際の授業がそのとおりにうまくいかないことがあるとしたら、それは授業分析や教材分析が甘かった、ということである。だから、授業後にはシナリオを改訂し、よりよいものに書き換えていく。いわば「実際の授業」という関門をくぐり抜けて、シナリオをよりよく改訂していく。そのような作業を経ることで、授業は見違えるようにどんどんよくなっていく。
断言する。
「授業シナリオ」を書き続けることで、授業力は確実に上達する。
授業シナリオを書くことは、教材を分析する力、授業を構成する力、生徒を指導する力、予想外の展開に対応する力など、そうしたいわゆる「授業力」を身につけるための有効な方法である。優れた授業者になるための修行の一つなのだ。
長年教師をやっているからよい教師である、とはいえないのと同様、長年国語を教えているからといってよい国語教師である、とはいえない。自分が実践してきた授業の一コマ一コマを分析して、反省して、作り直して、よりよい授業を創造するために努力し続ける教師こそがよい教師である。「授業シナリオ」を書く、ということはつまりそういうことなのである。
とはいえ、生徒たちのためとはいえ、授業力の向上のためとはいえ、一時間一時間のために多くの労力を費やして「授業シナリオ」を書き続けることは困難である。部活指導、生徒指導で追われる中学校の教員にとっては、時間的にも体力的にも余裕がない。
わたしは次のようにして解決した。
1,実際の授業をテープに録る。
2,テープを起こし、「授業記録」として体裁を整える。
3,「授業記録」を来年度への「授業シナリオ」として書き換える。
4,尊敬する先生(わたしの場合、野口芳宏先生)に送る。
何もないところから始めるのは難しい。まず「授業記録」を書くことから始めよう。「授業記録」を「授業シナリオ」に書き換えるのは若干の想像力さえあればそう難しくはない。
また、4,のようにモチベーションを保つことも重要である。尊敬する先輩や同僚、仲間に読んでもらうことで次への意欲がわいてくる。
本書は、私が実際に行った授業のシナリオである。すべて実践を経て鍛えられたシナリオである。この本を読んでいただいた先生方に参考になるものがあれば取り上げていただき、それがご自身の授業改革の一助となれば幸いである。